昭和44年01月05日 朝の御理解



  御理解 第5節
 「これまで、神がものを言うてきかせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」

 今日から、いよいよ寒修業に入った訳ですが、その寒修業に当たって、御理解第5節を頂くのですけれども、成程金光様の御信心はこの通りで御座います。今迄はいわゆるどこへ参っても神がものを言うてくれる事はなかった。言わば片便の願い捨てであった。どこでも何々様と云うて祈願をする。ただこちらの願い、こちらの思いを申し上げたり、祈ったりして帰ってくるだけであった。
 まあ従来の日本で皆さんが頂いた信心はだいたいそういうものであった。それでも一心を立つると、おかげを受けられるというのは、わが心に神がこざるから、おかげになるのじゃと云うておられます。私は、この御理解第五節から思わせて頂く事、又分からせられる事。それを今日は聞いて頂きたいと思います。お互いの心の中に神が御座るから、一心を立つるからおかげになるのです。
 云うなら内からおがんでも、柱一本目当てにしておがんでも、内の方からおがんでも、立木一本を相手にして、おがんでもいいのです。おかげを受けると、云う事に於いてはそうなんです。それはわが心に神がござるから、おかげになるのです。そんなら、金光様の御信者でも同じ事なんです。家に神様をおまつりしてあるんだから、うちの神様をおがんでもいいのです。
 勿論拝んでおりましょうけれども、所がそれでは皆さん片便の願い捨てでありましょうが。片便の願い捨てじゃいかんのです。金光様の御信心は。そこで、生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事なし。此方が祈る所は天地金乃神と一心なりと仰せられる。ここで拝むのも家で拝むのも同じ事であるけれども、大変な違いがあると云う事です。ここでお参りさして頂いてお取り次ぎを頂く所に。
 神の声を聞いて帰れるでしょうが、云わば、神様の御返事とも思われる御理解、御教えを頂いて帰る事が出来るでしょうが。だから、金光様の御信心を頂いとっても、片便の願い捨てである信心の人が多い事が分かります。私共は日々、信心の稽古をさせて頂くと云う事は、日々願い、そしてお取り次ぎを願いお取り次ぎを頂いて帰ると云う事。お取り次ぎを願い、そして神様の思いを聞かせて頂いて帰る。
 こちらの願いに対する御返事を頂いて帰る。だから、お取り次ぎを願い、お取り次ぎを頂いて帰る事が出来るのは、お広前。これは金光様の御信心頂いておるから皆が、この御理解5節に御理解下さってある願いというか、願いと云うのはお広前を中心と云う事になると思うのです。「天も地も昔から死んだ事なし。此方が祈る所は天地金乃神と一心なり。」天も地も昔から死んだ事なし。是は誰しもが認める所です。
 天地が停止をされたら、一切のものが停止をする。それは本当云うたら、生きとし生けるもの全てが、その場で枯れる訳です。天も地も昔から死んだ事なし。そんならそういう中にある、私共が矢張り、おかげを受けているんですけれども、天地が願って、御座るおかげ云うなら、神様が私共に願って御座るおかげは、私共の心も、生き生きとしておらねば駄目だと云う事。
 天地も生きて御座る様に、私共の心も生きておらねば駄目だと云う事です。そうするとですよ、金光様の信心頂いとってもですよ。天地はなる程、昔から死んだ事なし、生き生きして御座っても、死んだ教会生き生きとした働きのあって無い教会であっては、生き生きしたおかげは受けられない事が分かります。但しわが心に神が御座るから、一心を立てればおかげになると云うおかげは、受けられておるのです。
 今度の青年会の、年頭本部参拝の様に、どうしてここでは、あの様な事が出来るのであろうかと、云う事を聞かれたのですが、それは、矢張り皆が、一心を立つるからだけではなくて、天地が生きておるのと、ここの取り次ぎの働きが生きておるからだと私は思うのです。皆さんの心が生きておる、天地が生きて御座る。同時に、取り次ぎの働きが生きておるからなんだ。
 ところがその私共の心と云うものが、時々枯死寸前枯れてしまう。神様が発動し給う、自分の心の神が発動する。お参りしたいと思うけれども、なんとかかんとかお参りが出来ない。朝参りも本気でしたいけれども、ちょっとその時間にずれて出来ない。それはもう心が枯死寸前なんです。心が生きてない証拠なんです。云うならエンジンのかからない自動車と同じ事なんだ。
 自動車そのものは同じであってももう動く事が出来ないのです。そうゆう意味でこの寒修行をです参加させて頂く事によって、今迄消えかかっておった発動機がです又起こりだして来る訳なんです。先日ある方が元旦の初夢に他の人の車を引っ張ってやっておる所を頂いた。いわゆる例えば今度の寒修行をつかまえてです信心に勢いがない。枯死寸前にあると云う人達を引っ張っていくそういう力が欲しい。
 私は寒中修行についてこの5節から感じるのですけれども、この何の道でも修行がある。修行のない稽古事てあろうはずがありません。取分け寒い盛り暑い盛りをよりによって修行でもさせて頂こうと云う。私は昨夜共励殿で休ませて頂いた。そしたらその光昭が休みに参りました。そしたら敷布団もしなけりゃ枕もしませんもん。そして毛布一枚でコロッと休む。ははぁ今毛布一枚の修行をしよるなと思うたんですが。
 ですから云うなら、その寒と闘おうと云うのである。私は何時も、皆さんに聞いて頂きます様に、金光様の御信心は、結局自然の働きとの、対決だと申します。天地自然との対決なんだ。その中には、もう本当に是以上辛抱は出来ない、と云った様な事がある。けれども、是を大事に受けていく事が信心だと、是が真の信心だとまで、私は云っておるのです。神様が私共に求め給う。
 自然に起きてくるその問題を、いわゆる合掌して受けていけ、元気な心で受けていけ。是は自然との対決に克服しぬいていく、頂き抜いて行くと云うのである。私は真の信心のおかげを頂く為には、この真の修行が必要だと思う。真の信心を頂く為には、真の修行が大事であると思う。その真の修行と云うのは、自然の働きをそれをまともから受けていこうと云ういき方なのである。
 ですからそれが例えば容易な事ではない、大変難しい事がある。ですからそういう心を鍛えると云う事なんです。寒中修行と云うのは。その寒さと対決して、そこから信心を頂いていこうと云うのである。ですからこの寒さに耐え得ると云う事。それをわざわざよって、修行させて貰うと云う事はです。それが出来ずしてから、常日頃に起きてくるいろんな問題の中にも、これが真の夏暑さであろうか、寒中の寒さであろうかと云う様な事がある訳なんです。
 ですから、そういう実際の問題に対決する時に、それを克服して行く所の、いわゆる忍耐力とでも云おうか、辛抱力とでも云おうか。そこんところを頂いていく為に、私はどうでも寒中修行が必要だと思う。そうゆう意味で、皆さん、いわゆる「寒との対決」なんですよ。そりゃ朝もゆっくりと布団の中で、ぬくぬくとしとった方が楽なんですよ。けれども、その「天も地も昔から死んだことなし。」と仰る。
 その生きた天地の働きと云うものは、何時も同じではない、何時も変わっておると云う事。その激しく変わっていく天地の働きと云うものをです。私共の心もやっぱり生き生きとしてです、それに取り組む、それに対決していけれるだけの力を養うておかなければですお徳は受けられない。真の信心は出来ないと云う事が分かります。ただ時々参ってお願いをしてそしておかげ頂く、いや参らんでんおかげ頂く、それは我心に神が御座るから一心を立つるから、おかげになると云うかげなのです。
 そのおかげはです云うならば、さっきの話じゃないですけれども、椿の花を切ってきてお水の中に挿しておる様なもの。花は咲く事は咲くばってんそれきりでしょうが。いわゆる生きたものと生きたものとの触れ合い。だから金光様の御信心頂いとっても、所謂金光教の教会であっても、そういう生きた神様の働きと云うか発動のあってない教会、又は心の中にそうした生き生きとした物のない信心。
 それでは、生きたものに触れようとしても触れ様がない。そういう意味で、私共の心が生き生きしとかないかん。その為にはです、例えば、寒中に向かって飛び出すと云った様な勢い、取分け寒中なら寒中をよって、そういう心を養うていく為の修行。それが私は寒中修行だと思うのです。この寒中修行にお参りして、おかげ頂こうと云うのは、そうゆう意味でのおかげでなからないかん。
 今迄どうもエンジンがかからんかった。それが寒い中眠い中に辛抱していきよったら、エンジンがかかる様になった。そこから私は所謂動くおかげとでも申しましょうか、それが頂ける様になる。同時にですそれでも一心を立てれば、我心に神が御座るからおかげになると仰る。この一心を立てると云う事と、最後に此方が祈る所は天地金乃神と一心なりと云うておられます。
 信心とはその一心と、この一心とがひとつにならなければならない。所謂天地同根なんです。それを私は徳を受けた人の姿から見る事が出来る。何時も天地と一心ですから、何時も天地とつながっておられる。私共が一心を立てるそこからです、「天地金乃神と一心なり」と仰る一心、所謂天地といつも交流しておられる。そういうおかげを受けると云う事が金光様の信心の眼目。
 唯一心を立てればおかげを頂くと云うそのおかげだけではなく、何時もが天地と交うておると云う様なおかげ神様の願いが、そのまま私共の上に表れてくるおかげ。私共の頂けておるおかげは、唯私共がの願いがかのうたおかげ。一心を立てておかげを頂いておるけれどもそれは私共の願いが成就しておるだけ。ですから金光様の信心は何処までも天地金乃神様の願いが、私共の上に成就すると云うおかげでなくてはならない。
  「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」と仰るのは、そうゆうおかげ。私共の願いだけが成就する。是だけならば、例えばここへ参って来んでも木の柱を拝んでもいい。石のほこらを一生懸命拝んでも、医者の見離した病人位助かる。けれどもそれは私共の願うおかげである。私が今日申しますのは、私共が立てるその一心と、天地金乃神と一心になる為の一心でなからないかん。
 それが本当は、神様の願いなんです。信心しておかげを受けてくれよと云うのは信心をお徳と受けてくれよと云う事である。 信心してお徳を受ける信心とは、只一生掛って参っただけじゃ駄目。お取り次ぎを頂いて、片便の願い捨てでなくて、お取り次ぎ頂いたその事なんです。私共の生活の上に表していくと云う事。それをここでは、私がなべて申しておる事はです、天地の働き私共のうえに起きてくる全ての事。
 成行きを神様のお働きとして、粗末にせず、合掌して受けていけと云うのである。そういう信心を目指して、まあ倒れ転びでもよいから、させて頂く所からです、真の信心が出来る真の道が分かってくる。そこから天地に交う所の道が開けてくる。お徳を受けると云うのは、そこ以外にはないと思う。そういう大事なものを頂かなければならない為にもです、その暑い寒いと対決していく事によって。
 それを克服出来る力がなくては、出来るはすがないでしょうが。寒修行と云うのは、そういう大事な意味があると云う事を、ひとつ分かって、エンジンのかかってない人は皆さんが引っ張って来る位の、そして修理する所は修理して平常にする位の、そうゆう意味での信心なり御用なりも、今度の寒修行はあるようです。今日は寒修行に当り、この5節の中から感じさせて貰う事を聞いて頂きましたですね。
 「これまで、神がものを言うて聞かせる事はあるまい。どこへ参っても片便で願い捨てであろうが。それでも一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事なし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」お互いの立てる一心が、天地と一心になれる所までの信心を目指してのおかげになってこなければならないですね。
   どうぞ。